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【第35 日本ソール・ベロー協会大会】

日時:2023年92日(土)午後1:005:00

会場:大阪大学豊中キャンパス文学部大会議室(本館2F)/ZOOMオンライン併用


《プログラム》

 ①    開会の辞

 ②    総会

    研究発表 (1:10~2:10 p.m.)

(1)「存在しない記憶を語り始めるということ――Nicole Krauss, Man Walks into a Room (2002) とホロコースト第三世代のフィクション・メイキング」(仮)

 篠 直樹(大阪大学大学院人文学研究科 人文学専攻 英米文学専修 博士後期課程在籍)

(2)「Alfred Kazinの恋愛遍歴についてThe Adventures of Augie Marchとの比較―」

 山内 圭(新見公立大学教授)

    シンポジウム「“A Silver Dish”を読む」(2:10-4:00)

 司会・講師: 渡邉克昭(大阪大学教授)

 講師: 大場昌子(日本女子大学教授)

 講師: 伊達雅彦(尚美学園大学教授)

 講師: 近藤佑樹(滋賀県立大学専任講師)

    特別講演: 「文学翻訳――ソール・ベローの場合――」(4:00-5:00)

 講師: 鈴木元子(静岡文化芸術大学名誉教授)

 総合司会: 片渕悦久(大阪大学教授)

シンポジウム: 「“A Silver Dish”を読む」(2:10-4:00) 

       司会・講師: 渡邉克昭(大阪大学教授)

       講師: 近藤佑樹(滋賀県立大学専任講師)

       講師: 大場昌子(日本女子大学教授)

       講師: 伊達雅彦(尚美学園大学教授)

「あなたなら死をどうするだろうか。この場合、老いた父の死を。」単刀直入にこのような読者への問いかけで始まるソール・ベロー「銀の皿」(1978)は、ノーベル賞を受賞した巨匠が、短編小説はかく書くべしと言わんばかりに、伸びやかな筆致で創作した珠玉の名作である。1980年にオー・ヘンリー賞を受賞した本作は、円熟味を湛えているばかりでなく、ベロー文学への誘いという意味においても、これまで多くの読者を魅了してきたように思われる。本シンポでは、老いやケアや死についての関心がとみに高まりつつある現在、この作品の魅力をさらにどのように引き出すことができるか、多角的な視座から新たな読みの可能性を探ってみたい。

要旨

「The World According to Woody ――テロの現代から考える愛の世界」

近藤 佑樹

ソール・ベローが1978年に発表した作品「銀の皿」は、短編でありながらウッディーとその父の人生を描いた極めて濃密な物語であると言えよう。しかしながら、そんな作品の冒頭で語り手が熱弁するのは、主人公やその父親が生きていた時代と、今の社会(1970年代当時)とは極めて異なっている。語り手によると、今やテロリストが飛行機をハイジャックして民間人に不条理な暴力をもたらしており、地球全体には「死の蠕動」のごとく、殺伐とした空気が蔓延している。この冒頭にしか登場しない空から生じる脅威への言及は一見唐突に思えるが、本作を読み解く上で重要な示唆を与えてくれる。

現代の全世界を覆う殺伐さを後景にして描出されるのが、かつて人力車を引いていた、文字通り「地に足のついた」ウッディーという人間の生きざまであり、「愛の世界」という彼の秘めたる理想像である。さらに、本作は彼の住むシカゴという、ミクロかつマクロに広がりを見せる街を活写しており、そこからウッディー本人の世界観なるものが垣間見える。

今回の発表では、本文中における「戦争」や「世界」、あるいは「地」と「空」という場の対比をキーワードとして設定し、ウッディー及びその父の回想をこの作品が発表された当時のアメリカと比較することで、ウッディーの「愛の世界」を本作においてどう位置付けることができるのか、検証したい。


 「記憶の再構築が生む新たな物語」                            大場 昌子

「銀の皿」の冒頭の問いかけは父を弔うストーリーであることを明示している。父と息子は表面的には〈奪う者〉と〈与える者〉という二項対立的な人物描写がなされているものの、本質的な対立関係にはなかった。なぜなら、両者は銀の皿をめぐる出来事で最も緊迫する対立に至るが、以後父と息子は40年間にわたりこの出来事について語り合ってきたというのである。このときの対立の根本原因は、息子が周囲のキリスト者から経済的支援の形でキリスト教徒へと誘導されつつあったことにある。

発表では、父を弔う息子の語りがパーフォーマティヴに自らのユダヤ性再確認を導くプロセスについて考察したい。

 

「銀の皿」に見る死の様相

伊達 雅彦

「銀の皿」の後半部、借金の申し入れに訪れたスコグランド邸で繰り広げられるウッディーとセルブスト親子の取っ組み合いの喧嘩の場面は印象的である。戸棚の鍵を躊躇なく破り、銀の皿を平然と盗んで自分のズボンに押し込んだ父親セルブストに息子ウッディーは憤慨する。彼は思わず暴力的な行動に出て父親を戒める。ベローの描く主人公の多くは知識人だが、その中にあってウッディーは少々毛色の違う人物と呼べるかもしれない。そしてその息子に激怒したセルブストも息子の顔面を素手で殴打する。身体的暴力での応酬である。

こうした型破りな父親の最期を、息子が看取る場面でベローが描いた「死」の様相は、ウッディーが語るところのセルブストの「体温の喪失」に重ねられている。『ハーツォグ』で見られるような複雑な内省を描くことを主としてきたベローが「死」という人間の「生」にとって最大の問題を描く際に軸足を置いたのが、精神的な側面ではなく「体温」という身体的な要素だったことは興味深い。

ウッディーがセルブストを前段で「肉体的な(physical)」存在と呼んでいること、こうした暴力的な親子喧嘩、死に際の体温など身体を意識させる書き方をしている点を手掛かりに「銀の皿」を再読してみたい。

 

「世界は善なるものに満ちて」―「銀の皿」における「生」の創造的進化

渡邉 克昭

「銀の皿」の技巧上の特質の一つは、 “telling”と”showing”の切り替えが巧みであり、各パラグラフが絶妙の滑らかさをもって接合されていくところにある。だが、そのような物語の円滑なシークエンスを敢えて崩すかのように、ウッディーの直観的洞察が唐突にテクストに割り込む場面がある。すなわち、彼がまだ神学生であった頃、シカゴ博覧会の見物にやって来た農夫たちを売春宿へと誘うべく、人力車で街を駆けめぐっているさなか、「この世が愛の世界であるべきで、究極的には善なるものが回復し、遍く愛の世界が行き渡る」という想念がいずこからともなく立ち現れる。語り手は、ポップの臨終の場面を前にして、質実なウッディの心を貫いてきたこの汎神論的とも思える信念について再び言及している。

本発表では、若き日のウッディーのエピファニーを導きの糸として、本作を貫通する「生」の弾みがいかに創造的進化を遂げていくか、「善なるもの」との関係において炙り出してみたい。まずはその手掛かりとして、New Materialism 及びActor-Network Theoryを援用しつつ、日曜日に教会から一斉にこだまする鐘の音に誘われ老父を悼むウッディが、身体/具現(エンボディー)化された諸々のマテリアルといかに分かち難い関係を切り結び、キリスト教的「善」をも脱構築する壮大なヴィジョンを確信するに至ったのかについて分析を行う。それを踏まえ、父から子へと「善なるもの」として継承されていく生命の生成変化のありようを、アンリ・ベルクソンの「創造的進化」という補助線を引くことにより、炙り出すことができれば幸いである。